2023締め
父は山へバイク乗りに,母は街へミュージカルに。僕はこうして自宅警備しているってわけ。暇です。
もういくつ寝るとお正月ですが,良い一年を過ごせましたでしょうか。僕はなんか知らんけど忙し目な一年でした。程よく手を抜きながら生きていくつもりだったのですが...
振り返ってみれば楽しく過ごすことができていたので,関わりのある方々への感謝を述べておきたいと思います。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
社会人の話
2023年1~2月あたりが就活のピークでした。詳しくは就活記 前編 - メモ帳2023にまとめてあります。何を基準で会社を選ぶか,今後のキャリアプランや人生設計などぼんやりと考え始めたら沼でしたね。まあなるようになるさ。
めでたく目指していた企業に内定をもらい,懇親会や内定者研修などを通して社会人へなっていく実感を覚えている最中です。研修はプログラミングのお勉強という感じでまさに「プログラミング実習」をテキストベースで受講している感覚です。既知な部分もあるため余裕を持って進められています。
また,少し時間もあったので情報系の資格3つ(ITパス,情報セキュリティマネジメント,基本情報)とファイナンシャルプランナー3級を取りました。率直に楽しかったです。勉強と点取ゲームは性に合っているようです。
就職に関しては,3ヶ月大阪に住むことができる(全体研修)やったー!という気持ちと,→大阪→東京の引っ越しと部屋探し面倒!という気持ちでいます。今後のことはそこまで考えていませんが,数年働いて学べることを吸収しきって転職するんだろうなとなんとなく思っています。業界的に転職することが一番の昇格,昇給らしいので。
あとは半分妄想ですが,エンジニアとしてフリーランスあるいは小規模で独立し,傍ら飲食系(カフェ,バー)を営めたら楽しそうだなとずっと思ってます。自分の店でエンジニア業務して,空き時間に料理したりコーヒー淹れたりして,夜はそこで楽器弾けたら最高じゃないすか?老後でもいいのでやってみたいです。
ご縁の話
5年半お付き合いした方と別れました。祖母が亡くなりました。
生きていりゃ色々あるもんですね。
お別れに関して自分としては最善を尽くしたつもりではありましたが,なんだかんだバッドエンドに向かってしまって悲しいです。こちらの落ち度もあるので大きな学びとなりました。これが要因で人間関係って難しいね期に突入しました。相手のことが嫌いになったとかはありませんが,少なくとも数年間信じていたものが急に信じられなくなることの喪失感はなかなか応えます。
後日談も生まれたりした結果よく分からない状態になっていますが,他に接点があるわけでもないのでこのまま関わらない人として遠くへ追いやられていくのだろうと思います。互いに。
僕は俗に言うおばあちゃん子でした。徒歩圏内に母方の実家があり,昔からよく遊びに行ってました。両親はあまりゲームなどを許してくれなかったので最初のDSliteもポケモンも内緒で祖母に買ってもらって,祖母の家の押し入れに隠していました。結局バレましたが。そんな感じなので次ハードのWiiも祖母の家に設置し,友人を連れ込んでまで遊んでいました。自分の家より祖母の家で遊んだ日のが多い気がします。
年度明けに余命宣告されたこともあり,今年は多めに帰省してました。妹の成人式前撮りを早めたりそれに合わせて家族写真を撮ったりもしました(妹と2年ぶりの再会)。そんなこんなで死期をなんとなく意識していたので連絡を受けたときは「来たか」と思いました。
正直なところ悲しくはありません。けれど,寂しいとは思います。帰省しても会うことはできません。今回の帰省で最後の手紙を受け取りました。卒業祝いと就職祝いです。昔からキレのある祖母ですが,社会人となる僕へのメッセージは「円形脱毛症にならないように」と綴られていました。頑張るわ。
余談ですが,通夜葬式などなどを務めてくださったお寺が僕の保育園小中学校同級生の親で懐かしい話をしたりしました。また,火葬場の案内係が妹の友人の親だったらしくて不思議な雰囲気の葬儀でした。世界は狭いし,色々な縁があるんでしょうね。南無阿弥陀仏。
自分の話
人生における転機は今までに2回ありました。
1回目は小学校5年生頃。それまでは何も考えていないガキでしたが,その頃から生意気なクソガキになりました。自我を持ちはじめ,皆さん共通の暗黒時代こと思春期へ向かって行きました。
2回目は高校1年生頃。ふわふわと生きていた僕を地面へ引き戻してくれるような人に出会いました。音楽や小説の趣味が被っていたこともあるけど,めちゃくちゃ影響を受けた人です。その時点では自分の知らない人生経験を積んでいて自由を感じたのを覚えています。
今,3回目を迎えている気がします。形成途中の不安定な感じがする。具体的に言葉にするのは難しいのだけれど,価値観が変わっているような,自我の萌芽のような感覚があります。多分今関わりを持っている人達の影響を強く受けてしまうんだろうなあと思います。
自分は物事を考えすぎてしまう傾向にあるのですが,何かに迷うことはあまり好きではないらしいです。結末が良いものであることが分かっているから。飲食店ですんなりメニューを決められることとか,一人でする買い物が楽しいのとかは,その即決ペースが自分の中にあるからなんだろうと思います。だから逆に,答えのないことをよく考えているんだろうなと。あまり自分を苦しめるなよ。
締めの締め
内気なトピックが多いですが,一年を通してはとても楽しかったですわよ。
色んなところに行って色んなことをしたし,バンドも沢山できたし,研究も勉強もそこそこ頑張りました。
学生でいられるのはあと数ヶ月だけど,やりたいこと・行きたい場所はまだまだ山ほどあるので,皆さんお付き合いのほどよろしくお願いします。社会人になってからでもいいか。
久しぶりに書いたら文量が多くなってしましました。ここまで読んでくれた方はありがとうございます。
それでは,良いお年を!!
忙しさを終えて
柄にもなく10月は「本気(マジ)」をスローガンに生きていた。
勉強も研究も資格も音楽も遊びも,何も諦めたくなかった。なぜこんな精力的になったのかは分からないが,1ヶ月くらいこの精神で生き抜いてみようと意気込んでいた。
昔から忙しい生活は嫌いだった。周りの人たちはどうしてそんなに生き急いでいるのだろうと不思議に思うことさえあった。反面,何かをすり減らしてまでやりたいことがある人が羨ましかった。これは今も変わっていない。
資格試験日が近づくにつれ,これまでのと比べて勉強時間を割くことができていないということに焦りを覚える。締め切りが近づくにつれ,残された時間とタスク量を見て嘆きたくなる。学祭が近づくにつれ,増える夜スタジオ。
自分なりに身を削った結果,いくつかの反省点がある。いや,身を削って得られたのはいくつかの反省点である。
一つに,中途半端。多くのことを同時にこなしていると,全ての事物に対して100%を出せない(出しているつもりでも)。さらに蓄積ダメージを完全に回復する余裕はないので,コンディションの良いときの100%と比べると大きく劣る。資格試験がまさにそうだ。点取ゲームとしてはクリアだけど,それ以上に知識を得られた気がしない。もっと時間をかけたかった。
もう一つに,人に迷惑をかける可能性が高くなる点だ。自分の抱えているもので手一杯な状態で,他人との共同作業があったとき視野を広く保つのは難しいし,気を配る余裕が普段よりなくなってしまう。「今おれはXXとかYYとかで忙しいから〜」なんてのは言い訳である。目の前のことに向き合っているという点で,その場では皆平等に責任が生まれるはずだ。
いつもの自分ならこなせない(こなさない)ようなタスク量を1ヶ月で捌き,数々の締め切りを乗り越えた自分は自信をつけ,来たる修論の締め切りや,学生生活の終わりに向けて,精神的な余裕を持って向き合うことができるようになった。
なんてことは,まるでない。
学祭を経て研究や勉強から目を背けた結果の皺寄せが今である。物事は全てバランスであるが,それが崩れていた。(実際は学祭後,これまでを取り戻すかのように1週間ほど大遊びをしたためである。)数日後に控えているMTに向けて進捗を産まなければならないし,明日は研修に出かけなければならない。依然としてやらなければならないことは消えたりはしない。
嗚呼,忙しさは続く。
欲望
一人旅で仙台に来ている。誰かと一緒にとか、現地で友人と落ち合う旅行ではなく、完全に一人の旅行は初めてだ。
超楽しいし、自由を感じる。どこに行くかは前日あるいは当日に決めた。この記事だって仙台市内のとある公園でのんびりしながら書いている。(初めてスマホで書いてる)
超楽しい。
自由とは難しい。自分は、自由作文は何を題材にすべきか分からなくて書き出せない、自由行動では誰かについていくタイプの人。決まり切ったルールの中では一人で行動したがるくせに、「好きなことをやりましょう!」と言われると戸惑う人。
「こんなに自由でいいのか」と楽しくも不安を抱く、一人旅はそういうものだと思った。
何かに縛られているほうが、思考や行動に境界線を引ける。その中で自分を意味付けさせるられるので楽なんだと思う。
しかし、「生きる」ってそんなんじゃないなと最近は思うようになった。もっと際限なくて、ドロドロしてて、選択肢に割り振れないようなことをこの身で味わっていくんだと。
だから、好きなものは好きだし、やりたいことはやりたいし、ヤりたいこともヤりたい。そういうことを発言、行動するのに外の要因で制限すべきじゃないんじゃないか。
以下したいこと
- 本を沢山読みたい
- 映画を沢山見たい(グロくないやつ)
- 音楽を聴きたい
- ギターを弾きたい
- テニスしたい
- バドミントンしたい(早く誰かラケット買って)
- ボルダリングしたい
- 先生、バスケがしたいです
- 筋トレしたい
- ランニングしたい
- 週一くらいでホームパーティー的なことしたい(鍋とか餃子とかカレーとかコストコとか)
- 散歩したい
- 写真を撮りたい
- 色々なところに旅行したい(一人でも誰かとでも)
- みんなとゲーム、ボドゲしたい
- 甘いものも辛いものも食べたい
- のんびりしたい
- 勉強したい
他にも沢山。
なつやすみのしゅくだい ~読書感想文~
趣味:読書。たまにはアウトプットしてもいいんじゃないの。
終末のフール/伊坂幸太郎を読んだ。
8年後に小惑星が衝突すると予告されてから5年後(つまり3年後に終末を迎える)の仙台を舞台にした小説だ。設定は派手だが,それを日常生活に溶かし込んだような物語であると感じた。伊坂幸太郎らしい。
8編の話からなる。8編それぞれのタイトルはハライチのネタのようで小気味いい。
それぞれに登場する主人公ごとの立場における世界の終わり前が描かれており,様々な終末観がそこにはある。再生させる者,新たな生命と向き合う者,過去の恩讐に励む者,自ら終わりを望む者など。ある話での主人公が他の話では脇役で登場する感じも個人的には好みである。
人生のゴール
人は必ず死ぬ。当たり前である。
その当たり前は日々意識されているだろうか。終わりが訪れることはわかっているのに,終わりを宣言されることに焦り,混乱する。理不尽だからか。
「明日死ぬとしたら生き方が変わるんですか?」
もし自分が消えるタイミングがわかっていたら,今の生き方は変わるだろうか。
つまり「終わりを意識することにより,今が変わるか」
死でなくとも,別れや卒業など終わりに関係するライフイベントは生活のあちこちに転がっている。それらを意識した瞬間の感情はどうだろうか。自分は「終わること」に対してどのような姿勢でいるだろうか。かつては,新しく始まる次のことに胸を膨らませていることが多かった気がする。現状が恵まれている今は少し哀しいような気もする。
しかし,それらと死では決定的に異なる部分がある。「次」の有無である。(少なくとも輪廻転生は信じていないし,あったとしても今の自分自体は消滅すると思っている)死という圧倒的な終末を意識したとき,私は途方に暮れる。昔からそうである。自分が消えることの感覚がわからず(もとより消えてしまうのだから感覚など存在しないが),わからないことに怯え,寝るに寝れなかった日もクソガキ時代にある。
子供から見た車の運転だとか,中学生から見た微分積分だとかそういうものに似ている。現在の自分の状態と対象物に果てしないギャップがある(と思い込んでいる)ため畏怖の念を抱く。例のようなギャップは気づいたときにはなくなり,微積を学び,車を運転している。そのギャップは勉学の積み重ねや,年齢・環境的な条件解放によって無くなった。
死についても同じではないだろうか。ギャップを埋めるため,我々は死に向かって生を積み上げていると考えることができる。積み上げることができるのは今の自分である。積み上げることにより,死に近づく。高く積み上げられている人こそ人間力が高い。積み上げるにはそのとき「できることをやる」だけ。合理的に取捨選択するのではなく,もっと必死なことがそこには求められている。これは自分には足りていない。積み上げたフリだけ上手くなり,中身の伴わない八方美人になっている。みっともなくても何かを成し遂げられる方が人間らしい。
「死に物狂いで生きるのは,権利じゃなくて,義務だ」
理不尽な言葉だ。人生なんて理不尽にはじまり理不尽に終わるものなのだから,これくらいが丁度いいのだろう。生きることに理由を求める人がいるがそれはナンセンスだ。生きているのだから生きる,それ以上でも以下でもない。生きられるから生きているのではない,生きなければならないのである。
それくらい堂々と構えられたら,終末を前に積み上げた生の上で笑っていられるのだと思う。
死を以てゴールと為す。
人生の夏休み
人生最後の夏休み
ちゃんと休んでいるかい大学(院)生。無為な時間はあっという間に過ぎるから注意しろ。
気付いたら学生生活が残り半年になりました。
セミファイナル
ここ最近3日に2回くらい玄関出た瞬間に「ジジジッッ!」って音が慌てて飛んでいく場面に遭う。同じくらい自分も驚く。
学生としての自分も既に終わりかけ,虫の息なのですよ。いやもっと盛大に終わりを迎えるのかもしれないが。一年を2学期で分けるなら今年度の前半が終わった今,リーチがかかっている状態,マッチポイントなのよ,勝つ側なのか負ける側なのか分からないが。
M2上半期
今更だけど,自分がM2であることがしっくりこないな。大学3,4年かせめてM1の気持ちです。今年修了するけどね。
今年度入ってからは,新歓して熱出して,GWには焼肉焼肉風呂風呂して,資格取って,韓国旅行して熱出して,Fujirock行ってこんにゃくに殺されていましたね。合間合間にライブと研究。中間発表も終わってた。運動の幅も広がりつつある(壁,テニス,バド?,みんなやろうぜ)。こういういつ何をやったか確認するのに手帳を使うんだけど,手帳だけ見てると結構楽しそうな人生送ってんなって感じた(今)。
少し先のことについて
自分は一つ二つ先のステージに憧れを持つ傾向がある(小中学生のときは高校生に,高校生のときは大学生に早くなりたいと思っていた)ので,社会人になることが結構楽しみである。だからか,今後のタメになる(はず)の資格の勉強などを好き好んでやっている気がする。
引っ越しとか諸々の手続きとかを考えるとまあ悩みも尽きませんけども,少しは他人を頼れる人になりたいと思っているよ。↓
最近の悩み
大きくまとめると自己完結癖である。他人への興味の無さ,人に頼ることのできなさ。側から見れば「ちゃんとしている人」なのかもしれないが,自分にはそうすることしかできないんだよ。結果的にパフォーマンスを見ると,協同できる人の方が立派である。
この癖はいくつか自分の根底にある思想のせいであると思う。
- 思想1 : 自分以外は他人である
- 思想2 : 他人は(あまり)信頼・信用できない
- 思想3 : 信頼・信用できない人に頼る = 貸しを作る
こう見ると割とひどい考えを持っていることがわかるが,嘘はついていない。
思想1より自分以外に関することはひとごとであると処理する。(当事者意識のnasa)
思想2, 3より人に頼ることができない。
この思想自体は変えることに莫大な時間と労力がかかるだろうから,無条件に信じることができる「神」が目の前に現れてくれる必要がある。そう考えてみると,宗教は結構合理的な生き方の一つであるように感じる。
それか信頼・信用を再定義するか。
誠実であれば信じるに足る人物であると思っている。ここで自分の中では誠実さが悪魔の証明で成り立っている。つまり,誠実さとは過失の無さで表されているのである。例え1回であったとしても,「ドタキャンする人」「約束を破る人」「時間にルーズな人」「浮気をする人」とラベリングしてしまい,それが剥がされる条件は相当な時間か,相当な好感的行動である。これにより厳しさが増している。
その結果n(ラベルの貼られてない人) << n(ラベルの貼られている人)となって苦しいのである。(<< : ストリーム挿入演算子ではない)
そんな自分の生きづらさを最近は噛み締めてるよ。
ジジジッッ!
梅雨の鬱
どうやら梅雨入りしたらしい
少し前の台風&前線による大雨以降あまり天気が崩れてはいないが,もう梅雨である.
梅の実が熟す頃の雨季のため「梅雨」って呼ばれるらしいよ.
鬱々
忙しいふりをしている.多分本当は忙しいわけではない.
今回は愚痴っぽくなるので,そういうタイミングで読まれたい.
普段はあまりネガティブではない(ように気をつけている)が,僕も人間である以上負の感情は抱く.
正直なところ「学生生活に飽きた」がしっくりきてしまうのが現状である.研究室はコミュニティとして死んでいるし,サークルは良くも悪くも慣れ切ってしまった.思えば,それ以外に人間関係をほぼ持っていない.
生活といえば,睡眠・飯のほか運動,楽器,読書,ゲーム,作業(タスクがあるふり)を繰り返しており,予定がない限り一人でそれらをこなすだけである.大学院に入学してしばらくはそのような環境が心地よかったが,そろそろ満足だ.
この「飽き」にはいくつか原因がある.
一つに学生としての目標・目的がないことである.大学院に進学した理由としてはコロナのせいで大学生活が不完全燃焼感があったことと,就活が不便だったことくらいであり,少ない研究への熱意を誇張して院試に受かった.しかし「大学生活が不完全燃焼」とか宣っているが,そもそも目的のない大学生が完全燃焼するわけがないのは当然のことのように思える.
もう一つに次の進路が決まっていることである(就活中の方がこれを読んで気を害してしまったら申し訳ない).自分は運がいいことに来年の働き先が既に決定している.つまり,これから残り半年以上の中で必ず果たさなければならないことは,修了のみだ.さらに,就職先が全く今の研究と関係がないため,研究へのモチベーションがない.自発的に研究に励んでいる大学院生,研究者にはここに敬意を表する.
さてどうしたものか.
大して向上心がないくせに真面目ぶっているのだからタチが悪い,自分という人間は.
「向上心のない者は馬鹿である.」
ええ馬鹿ですとも.
旧友に会った話
旧友
古くからの友達。また、昔の。「―とする」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%97%A7%E5%8F%8B/#jn-55514
古くから「続いている」友人,昔の友人のどちらの意味も含めるらしい.
数年ぶりの再会
GW付近に関西旅行をしたのだが,その際に大阪と京都にいる高校同期2人に会った.
実に成人式ぶりであった.(のはず)
それぞれの近況,ここ数年の間に身に起こったこと,将来のこと,各々の考えなどを共有するいい時間であった.
二人とも自分と同じく現役で大学に入学し現在は大学院に通っている.
一人は,ストレートで大学院に入り,現在は博士課程への進学を検討しているようだ.第一志望はヨーロッパにある大学院らしく,入試の勉強もさることながら言語の壁を少しでも低くするための勉強を今はしているらしい.高校の頃は僕と同じ部活に所属しており,ジャグリングに勤しんでいた.どうやら自己鍛錬が好きらしく(昔から筋トレはしていた),ランニングを続けていたところこの間のフルマラソンを3h30mで完走したらしい.強い.
もう一人は,根は真面目で超いいやつなのだが,怠惰&己の不注意(本人曰く「シラバスの日本語が読めなかった」)により留年をし現在は修士1年.就職と博士課程でちょうど迷っているところらしい.5,6歳年上の彼女と付き合っており,半分ヒモらしい.大丈夫か.
話の種
就職と博士課程あたりの話から,アカデミアでの地位の確立の仕方,就職後のライフプランなどについての話が主であった.
自分は他人がどう生きようとあまり知ったこっちゃないと思ってしまうタイプの人間ではあるが,他人がどのように人生を捉えているのかについては興味があるということを体感した.
友人とは
さて,これが難しい.
数年間,連絡すら取り合っていなかった人を友人と呼べるのだろうか.ましてや,表現がきついかもしれないが,自分は彼らを含め他人にあまり興味がない.機会があれば再び会うことはあるだろうが,これからまたしばらく連絡は取らないだろう.
結局のところ人間関係は流動的であり,数ヶ月・数年単位で変わるものだ.行く川の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず.
その中で生まれる「友人」という存在が一時のものであるか将来的に続くかは,その時にはわからないし圧倒的に前者である場合が多い.
そのため,関係を続けようとする営みが尊く見えるのだと思う.
さて,僕と「君」はどうだろうか.