メモ帳2023

気ままに

なつやすみのしゅくだい ~読書感想文~

趣味:読書。たまにはアウトプットしてもいいんじゃないの。

終末のフール/伊坂幸太郎を読んだ。

8年後に小惑星が衝突すると予告されてから5年後(つまり3年後に終末を迎える)の仙台を舞台にした小説だ。設定は派手だが,それを日常生活に溶かし込んだような物語であると感じた。伊坂幸太郎らしい。

 

8編の話からなる。8編それぞれのタイトルはハライチのネタのようで小気味いい。

それぞれに登場する主人公ごとの立場における世界の終わり前が描かれており,様々な終末観がそこにはある。再生させる者,新たな生命と向き合う者,過去の恩讐に励む者,自ら終わりを望む者など。ある話での主人公が他の話では脇役で登場する感じも個人的には好みである。

 

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人生のゴール

人は必ず死ぬ。当たり前である。

その当たり前は日々意識されているだろうか。終わりが訪れることはわかっているのに,終わりを宣言されることに焦り,混乱する。理不尽だからか。

 

「明日死ぬとしたら生き方が変わるんですか?」

 

もし自分が消えるタイミングがわかっていたら,今の生き方は変わるだろうか。

つまり「終わりを意識することにより,今が変わるか」

 

死でなくとも,別れや卒業など終わりに関係するライフイベントは生活のあちこちに転がっている。それらを意識した瞬間の感情はどうだろうか。自分は「終わること」に対してどのような姿勢でいるだろうか。かつては,新しく始まる次のことに胸を膨らませていることが多かった気がする。現状が恵まれている今は少し哀しいような気もする。

 

しかし,それらと死では決定的に異なる部分がある。「次」の有無である。(少なくとも輪廻転生は信じていないし,あったとしても今の自分自体は消滅すると思っている)死という圧倒的な終末を意識したとき,私は途方に暮れる。昔からそうである。自分が消えることの感覚がわからず(もとより消えてしまうのだから感覚など存在しないが),わからないことに怯え,寝るに寝れなかった日もクソガキ時代にある。

 

子供から見た車の運転だとか,中学生から見た微分積分だとかそういうものに似ている。現在の自分の状態と対象物に果てしないギャップがある(と思い込んでいる)ため畏怖の念を抱く。例のようなギャップは気づいたときにはなくなり,微積を学び,車を運転している。そのギャップは勉学の積み重ねや,年齢・環境的な条件解放によって無くなった。

 

死についても同じではないだろうか。ギャップを埋めるため,我々は死に向かって生を積み上げていると考えることができる。積み上げることができるのは今の自分である。積み上げることにより,死に近づく。高く積み上げられている人こそ人間力が高い。積み上げるにはそのとき「できることをやる」だけ。合理的に取捨選択するのではなく,もっと必死なことがそこには求められている。これは自分には足りていない。積み上げたフリだけ上手くなり,中身の伴わない八方美人になっている。みっともなくても何かを成し遂げられる方が人間らしい。

 

「死に物狂いで生きるのは,権利じゃなくて,義務だ」

 

理不尽な言葉だ。人生なんて理不尽にはじまり理不尽に終わるものなのだから,これくらいが丁度いいのだろう。生きることに理由を求める人がいるがそれはナンセンスだ。生きているのだから生きる,それ以上でも以下でもない。生きられるから生きているのではない,生きなければならないのである。

 

それくらい堂々と構えられたら,終末を前に積み上げた生の上で笑っていられるのだと思う。

 

死を以てゴールと為す。